スマホ依存

「どうすればスマホ依存から脱けだせますか?」。ふだんひとことも発言しないある中学生から、おもむろにそう質問された。頼りにされていると思い、この生徒も私同様「スマホ問題」をかかえているのだと同胞を得たようにも思い、うれしくなると同時に問題が問題なだけに軽々にものは言えず、できるだけ明るい表情で「その通りだよね、難問だよね」と共感を示す程度がその場ではやっとであった。

依存というのは、イヤだけれど使わずにいられない、見ずにいられないということで、ひとつの中毒であるということだ。そうであるなら生活に支障がでるでしょうし、脱けだしたいと思って当然。私自身、ムダに時間をとられているなとスマホを遠ざけたくなることがよくある。と言って、持ちわすれた時は胸元がヒヤッとして、どうあっても取りに帰らずにいられない。肌身に離せないものだと脳にインプットされているかのようだ。この手のひら大の薄っぺらい板に、どんな魅力と効力があるというのか? 「敵を知る」ためにも振りかえって列記してみたい。

電話ができる。手紙を送れる。手紙をもらえる。地球の反対側にいる人と瞬時に交信することができる。時刻がわかる。目覚まし時計にもなる。地図になり、行き先の経路を教えてくれる。音声つきのナビゲーションもしてくれる。電車の乗換案内、運賃、出発から到着の時刻まで、複数の候補をあげて示してくれる。天気もくわしくわかる。時間ごとの空もように気温、風向、風力、降水確率など。5年前の同日の天気が気になれば、それもパッとわかる。カレンダーになり、計算機になり、カメラになり、撮った写真のアルバムにもなってくれる。闇の中では懐中電灯になり、勉強中は辞書に——あらゆる分野の参考書をストックしている。ノート代わりにもなり、音楽まで流してくれる。もちろんゲームもできる。そして動画の視聴——テレビより何倍もおもしろい番組が無数に配信されていて、飽きることがない。そしてまた買い物をさせてくれる。電子決済ができるから通販サイトで寝そべりながらのウィンドウショッピング。指で触れるだけで何日か後に郵便受けや玄関前に所望の品が届けられる。。。といった具合で、生活に必要な情報と通信手段がこの板一枚で事足りるのだ。

なんて便利な道具でしょう! 必要だし面白いしで、依存させられて当たり前。しかしその状態が過度だと感じるなら、対処法を講じるべきかもしれない。「敵」はこの上なくスマートだ。YouTubeなどの画面を見れば見るほど、その配信元企業の人工知能がこちらの好みを精査し、飽きさせないように関連の内容のものを配信しつづける。だいたいが平凡なものだが、中に強く引きつけるものが流れてくる。宝探しのような気分で、こちらは画面をスクロールすることになる。このあたかも「報酬」を期待させるという仕組みに、「敵」の思惑があるように見える。いかに飽きさせないか、いかにこちらを画面に隷属させるかということに力点が置かれているのでは。。。YouTubeなどの動画はAIを借りたその作り自体が視聴者を巧妙に誘惑するようにできているのだと思う。懐中電灯をつけたりすることとは次元がちがう。懐中電灯の点灯は能動的な行為で、用が済めば消灯しておわり。しかし動画の視聴は受け身でいて興じることができる。この受け身でいて楽しめるという点が夢中になってしまう原因で、「依存」たらしめる最大の落とし穴ではないか。

あなたは言うでしょう。強い意志を持てばそんな誘惑には負けないと。その通り、たかがテレビの代わり、見なくたって大丈夫。しかしLINEだのインスタグラムだのの他のSNSはどうでしょうか。連絡手段としてとても便利だけど、ここにも「囚われの身」にさせる危険がひそんでいるよう思える。こちらが送ったメールに「既読」マークがつかなくて気をもんだり、ついても返信のないことでまた気をもんだり、返信がきてもその中身がぶっきらぼうでカチンときたり。またこうしたことの逆のやりとりが相手側にあって、そのことも気になったりして。何回、何十回となく画面を開きタッチをくりかえしていることでしょう。相手が他人でなく知人であるだけにメールのやりとりは気をつかうし、無視しきれない。まして仕事上の相手であればなおさらだ。無視しようものなら職場での地位が危うくなる。仕事の関係でなくても友人たちとグループ(趣味のコミュニティー)で交信する場合もやっかいで、下手な所作をすれば陰口の的になるかもしれない。わざわざ。。。

かつて私は外国の知人と英語でメール交換をしていたことがある。時候の挨拶と互いの近況を伝え合うといった程度のものだったが、肉声に近いと思える文面だった。ところがFacebookが間に入ってきて状況が変わった。得体の知れない顔が無数に出てきて彼、彼女との交信の言葉は減り、「このサイトを参照せよ」とひとこと書いてあるだけのメールが多くなり、ついに交流もなくなった。いつでも、どこでも、誰とでもつながれるという気安さがマイナスに働いて、特定の相手との直接的・個人的な交流が消えたと私には思えた。

SNSは手軽で便利だ。が、欠いているものも多くあると思う。もともと通信の手段で、「間接的」なものにすぎない。情報の発信者が知人や友人だとしても、彼らと握手することはできないし、直接の対面の場にはあるであろう風の冷たさ、光の明るさ、かすかな音や香りなどを感じとることができない。いわば「身体的」なものがスマホからは得られない。所詮、「情報」で、情報がいくらあっても私たちの喉の渇きはいやされないし、満腹にもならず、筋肉が大きくもならない。そもそも電波が飛んでいなければ何も伝わらない。それなのに持ち物の中でいちばん大切な物がスマホになっている。車に乗ると「ケータイ電話をわすれていませんか?」と、ご丁寧にもアナウンスが鳴る。

面倒を減らすための技術革新のこの賜に、逆に煩わされているような状況があるとすれば、そんな状況を一体どうすればいいのか。「道具」だとわかっていても自分が主体で、スマホが客体だと思えなくなるときがある。対等か、時にはスマホの方が主で、こちらはスマホの情報をありがたく受けとる従者になっている気がする。いっそ余計な情報はいらないと覚悟を決めることも得策か? 仕事上の関係では、自分以外のもう一人(家族のだれか)の協力を得て、その人を緊急時の連絡先にして、仕事先に迷惑がかからないようにしておく。友人たちには機械音痴だからと始めに謝っておく。そうすれば丸一日ぐらいスマホを不携帯しても焦らずにすむだろう。

何度かスマホを持ちわすれて一日中不携帯だったことがあるが、大問題は起きなかった。家に帰って急いで画面を開きメールをチェックする。即答しなければならない案件は一通もない。そういうことが二度三度あった。ある週末に実家にスマホを置き忘れて帰宅し、日曜日を不携帯で過ごさなければならないことがあった。なくてよし、と諦めると、小ざっぱりした気分になれた。いつもより時間がたくさんあるように感じ、ふだんは向かない方へ目が向いた。紙の本に手が伸びたり、念願の片付けものができたりした。スマホからの情報がなくて心底困るということはまったくなかった。

「脱依存」への取っかかりとして、丸一日スマホを持たないという訓練をしてはどうだろうか。持たない状態の心地よさを発見できたとしたら、かなり良いのではないか? 持っていない時の過ごし方を頭に入れておくと訓練はスムーズだ。運動したり、人と会って話したり、何か身体への直接的な刺激が重要だと思う。あるいは思い出だ。スマホを手にする以前の暮らし方のいい思い出があれば、それを参考にする! かつてはテレビ、新聞などの情報で生活は事足りていたでしょう。情報のない生活だって快適に感じることはあるのではないか。自然の中での一時だとか…。スマホがなくてもやっていけた昔の日々を思い出し、その頃の楽しいと思えた暮らし方を再現するのだ。工作したり、料理したり、散歩したり、読書したり…。とにかく身体に刺激を与えていく。。。そんな悠長なことは仕事ではやっていられないと思うなら、まさにその仕事を大事にしてはどうでしょう? 丸一日をクソ忙しくしてしまうのだ。つまらない「情報」に囚われる暇がないほどに生活を忙しくする。知的ワークというより肉体的な作業で忙しくしてしまう。と、夜も眠りやすくなり、スマホを眺めることも減ると思う。。。ある中学生はスポーツクラブと学校とで疲れ果てて日に15分もスマホを見ていられないと言った。そのライフスタイルの善し悪しと本人の意思はともかく、忙しさでスマホを遠ざけることに成功している一例だ。

職人の腰道具のごとく主人づらしてこない謙虚な道具にスマホを手なずけておくことは、大変な勢いでAIが進歩している今、私たちの喫緊の課題であるかもしれない。気を許せば主人づらしてくる難物に思える。