孤独について
高齢者の寂しさには計り知れない深さがあると聞きます。きっと一人で「死」に向かうという孤独感が底にあるからではないでしょうか? あまつさえその高齢者が認知症をきたしていて、一人でいる時間が多いとしたら、その人はその寂しさを自分ではどうすることもできないでしょう。
当事者でないのでよくわかりませんが、見聞によりますと、ほとんどすべての物事が不確かに感じられてくるというのが認知症の特徴のようです。今は春か秋か、今日は何日で何曜日か? なんとなく満腹だけけど何か食べた覚えがない。… 見た覚えのあるあの人は誰なのか。ひと眠りして起きるとすべてが新しい、と言うか、眠る前の出来事を思い出せないでいる。自分は一体どうなっているのか? 今と昔が入り交じり、あの人とこの人がごっちゃになって映る。親と兄弟がまだいるのか死んでいるのかもわからなくなり、一人でいる時間が続くと寂しくて寂しくて、こんなに寂しいなら自分を無くしてしまいたいと思う時もある。
まわりの物事だけでなく、今ここにいる「自分」というものまで、霞がかかったようにおぼろげで、判然としなくて、あてにすることができないのです。それで独り言を言い続けたり、食べ続けたりして、自分の「生存」の確認をしたくなるのでは? 糸が切れて空に浮遊する凧になったかのような不安感。自分ではどうすることもできず、ただ墜落を待つだけの不甲斐なさと絶望。こうした「何もできない」という思いが彼らの寂しさの底にあって、一人で死とにらめっこをするという孤独感を強くしていくのだと思います。
一方で若者はどうでしょう…。もちろん孤独感に苦しむことはありますね。まわりの人と自分は違っているように思えて孤独を感じる。彼らの趣味嗜好に共感できないし、向こうから共感されることもないと思う。陰口を言われていると思うときは大変な恐怖も感じる。なんとなく怖くて、悔しくて、腹が立って、寂しくて、悲しい。一人でいるのはつらいけど、まわりに合わせて自分を出さないでいるのもつらい。出口のない閉塞感…。
しかしながら若者のこのよう苦悩は、実生活的、実社会的と言いますか、鋭利な痛みだけれど良き理解者が現れればスッーと解消するような一時のものにも思えます。だいたいは恋愛経験で癒されるものではないでしょうか。
高齢者に比べて若者にはたくさんの希望がありましょう。自分は確かに今ここにいて、相手たちも確かに今どこかにいると認識できる。時と場所、原因・結果の関係がわかり、覚えておく力も強い。とすれば、現状をどうにかするための「計画を立てる」ことができるでしょう。次はこうしよう、その次はああしよう、とまだまだ自分自身をあてにすることができるのです。実際に「ある」とわかる大地に、実際に「ある」とわかる自分の足をつけて、「ある」ということの確かさを感じつづけることができる。孤独を感じるとき、その孤独は、いわば確かな中での孤独で、その分、痛みは鋭いかもしれませんが、敵がはっきりしていて、はっきりしているから処方箋だって自分で作り出せるかもしれません。
どんな処方だよっ? 詰問されそうですね。一人ぼっちで寂しいと確かにわかるなら、「自由とは他者に対する絶対の信頼」などという寸言に触れるのはどうか…。一人でできる手っ取り早い策は、読書かもしれません。