この半年の些事

この半年間、減らすことばかりしている。父が倒れ、母がボケ、実家の管理を急に私が担うことになり、担ってみると父母の年金だけで彼らの介護費用をまかなえるのか心許なく、遠方の兄弟に支援を頼むかたわら、まずは家の出費をおさえる必要があるだろうと、減らすことばかりしている。

子猫五匹をもらってもらった。一年前から数えると大小様々な猫を四〇匹近く里子に出した。インターネットで関東甲信の全域に募集をしたところ、ほぼ一週間以内に里親が決まり、週末ごとに次から次へと猫好きの方々に手渡していった。父母は私のこの活動に感謝していた。私は父母に腹を立てていた。市の営繕課を通じて苦情が届くほどに近隣一帯の問題になっていたし、取っても取っても糞尿は取りきれず家屋が飼育小屋と化していたし、触ることはできてもカゴに入れて獣医の所へ持って行くことなど到底かなわない半野良の親猫たちが横行しているしで、どうして父母がちゃんと猫を飼おうとしないのか私には不思議でさえあった。結局のところ、ちゃんと飼えないほどに彼らは耄碌していたということなのだが、四匹にまで減らした今でも、エサと砂にかかる費用が母ひとりの食費とあまり変わらない。

父が帰るための寝室を一階に設ける必要があり、納戸と化していた六畳の和室を部屋らしくした。猫のおしっこだらけで衣類も書類もゴミにする他なかった。捨てることが大嫌いな母の目を盗んでせっせと減らし、父の一時退院の数日前に片付いたところ、様変わりした元納戸を見た母は激怒したが、私も私でコソコソとやらなければならないやるせなさを訴え、一階にベッドがなければ歩けなくなった父を外泊させることができないんだと、再三言ってきたことを口をとがらせてまた言った。と、そのとがった口調がいけなくて母はますます怒ったが、数時間後には口論があったこと自体を忘れていた。父の難病が進行しているという経緯も‥‥。

父母に悪いと思いつつも、家屋らしい家屋にしたくて、猫の被害にあった品々の他に、およそ着そうもない衣類、置いておいても仕方のない書類、こわれた家電製品を各部屋から集め、順次減らしていった。甲斐市双葉の施設に入っている伯母の管財役も私におりてきたため、東京にあった伯母の公営住宅もこの機に引き払った。電気、ガス、水道、NHKを個々に止め、天袋にまで物がぎっしり詰まった三部屋を回収業者に頼んで空っぽにしてもらった。甲斐市転入の手続きに伯母の署名が必要であった。ケアマネージャーの手を借りて伯母の拇印が横滑りになって押された。私が誰であるのか伯母はわかっていないようだった。

実家の冷蔵庫は食材がぱんぱんに詰まっていた。が、ほとんどが口にできるような代物ではなかった。毎週届く牛乳とヨーグルトを隔週の配達にしてもらったがまだ余る。数を半数にしてもお蔵入りしてしまうので中止にした。テレビの裏は子猫の糞だらけで、DVDプレーヤーもVHSのデッキも各種コードも朽ちかけていた。WOWWOWやBSなどの配信サービスを解約した。二箱がまったくの手つかずなので、たまに届く健康野菜ジュースも解約した。そして紛失したままの母の携帯電話も、毎月の基本料金が引かれていたので、これも解約した。宝の持ち腐れというより、無駄の山積みにしか見えず、猫たちに家を乗っ取られるような恐怖も感じたので、不経済なことは端から中止にしていった。

増やす、生む、取り込むということが母の好みであったから、このような削減を母がよろこぶはずはない。しかし今や父の療養費にお金がかかり、家計を維持しなくてはならない。ポケットにお札を入れたままの上着を、部屋の隅で猫砂まみれにしておくというような無駄はできないのだ。ついに今月から新聞の購読も停止した。牛乳にヨーグルト、新聞が来なくなったことにも母は気づかない。どこまでわからないのだろうか。どれほどまでに忘れてしまうのか。やがて伯母のように私が誰であるのかわからなくなってしまうのか‥‥。

新聞の停止を最後に減らすものはもうないと思えるところまで減らした。代わりに三人分の医療・介護関連の連絡先が増え、たびたび電話が鳴る。実家の管理、親たちの介護をスムーズにやりたい、身軽になりたいという思いから減らしてきた。必要と感じたがゆえの削減だが、父母の生活を削っているようで変な気持ちがする。減らして得たものと言えば、いくらかのスペースと清浄な空気ぐらいか。不要な物を捨てることは生活に調和をもたらす云々、とヨガの思想にあるようだが、調和? 一応の介護費用の目途は立ち、家計は保てそうだが、この先どんな調和があるというのか? セカンドオピニオンでは父の復帰は望めず、数年後には薬が効かなくなり、車椅子に座ってさえいられなくなるという。そのことを母は認めたがらず、「いつ帰れるんだろうね」と毎晩寂しそうに訊いてくる。去年の10月までの日々はもう戻っては来るまい。家をきれいに、家計をスリムにしておくことは、父母の穏やかな終盤の人生と彼らの介護にあたる私の何年間かに必要だと思ってきたが、それがもたらす生活の調和とは何なのか何のイメージも浮かんでこない。