微細と大なた

細かに見つめるということが勉強では大切なことですが、いつ、どこで、どのような状況で見つめるかによって、その成果はずいぶんと違ってくるように思えます。ある事柄がどうしたら腑に落ち、記憶に残るものでしょうか? 雇われ講師になる際のことですが、こういうのは贅をつくしていていいな、と染み入った体験があります。数行の英文を日本語に直す試験があって、広い事務所の大きなテーブルに私ひとりが着いて、決められた時間内でということがなく、試験官の元上司は事務所の隅で他のことをしていて、私は精一杯に集中して日本語に直したのですが、overhaulの意味がわからず、never failをすっきりと訳せず、恥じ入っていたところ、私の答案を点検して戻ってきた元上司は恐縮した面持ちで、「分解修理する」「必ずする」と訳すといいかもしれないね、他は良いんだけど‥‥、と静かに言うのでした。まるで正答を告げることは無粋で尊大なことだと臆するかのようにひっそりと。ごくわずかなものごとをゆっくりと見させてもらい、考えさせてもらい、そこで出た誤りは非常な謙譲さでもって指摘される。こうした指導を受けたのはこの時が初めてで、これが塾というものか、個人の能力を育てるというのはこうやって大人が時間と場所をさき、気を遣って親身になって初めて上手くゆくのかな、と私は感心して、その後の自分の指針にもなった出来事なのですが、実際に今、いい結果を引き出せているかと問われると、そういう時もあればそうでない時もあるというのが本当のところで、覚える分量の多さ、応用問題の多さ、生徒たちの学校や家庭での忙しさ、私の側の焦りなどで、「微細な観察」という記憶に残るための重要な勉強姿勢を実践させていないかもしれません。どこかに無理があるのかも‥‥。見つめたってわからないものはわからないし、つぎからつぎへと新しい単元の問題が襲ってくるしで、時間が足りないし、集中力だって長くは続かない。ある事柄を記憶に残せるのは稀な瞬間かもしれないのです。そうした瞬間がたびたびあればいいのですが、それほど簡単ではない。そもそも、じっと見つめて考えていくことなんて嫌いな人も多いでしょう。学業を第一の「仕事」とされている環境の中では、その環境を拷問のように感じて、やる気と自信をなくしている中学生や高校生もいるのでは? じゃあどうすれば‥‥。

投げ出しちゃえと言おうとしているのではありません。今覚えていることなんて役に立たないぞと悪のささやきを吹き込もうとしているのでもありません。別の見方、別の角度からのアクセス方法もあって、学校生活や勉強で行き詰っているとしたら、こんな考え方はどうかと提案してみたいだけなのです。つまり「微細」で行き詰るなら「大なた」を振るってみてはどうかと。大なたを振るうというのは、ものごとを大枠でとらえ、細かいことは考えすぎず、おおざっぱでよしとして前へ前へ進んでいくという意味です。だいたいでOK!として多くの作業をこなしていく。こうすることの方が実社会ではより幅をきかせていると思います。計算が苦手でも、英単語が覚えられなくても、何ら問題はありません。バリバリとやっていける仕事が世の中にはたくさんあります。何年か前のことで、ほんのわずかな期間でしたが、私は縁あって国会議員の秘書をやったことがあります。秘書というより運動員と言ったほうが正確ですが、まあ、名刺をひっさげて甲斐市を中心に小選挙区山梨県第一区を歩き回りました。塾での仕事とは大違いでした。質より量、支持者を2万人集めなさいと顧問に言われ、茫然としながらもお店や会社、個人宅を訪問し、ペコペコ頭を下げつつ当代議士の長所を訴え、感触が良ければグッと迫り、悪ければサッと身を引くという軽いノリで、ひたすら数をこなすという毎日でした。選挙に勝つべく大量の票を確保することが第一で、細かいことは後回し。浅くとも広く知ってもらうことが大切で、相手への気遣いは半分に、土足で上がり込むといった押しの強さも必要でした。かねてからの支持者は「いいよー」「わかったよー」と即答をくれ、初耳だと言う人でも「そうですか」と一応の話は聞いてくれます。翌朝のミーティングで歩いた証を発表すれば「仕事」になりました。なんて楽なんだろうと私は思いました。「いっさいの学理は灰色で、生活の輝く木は緑だよ」か。ゲーテの『ファウスト』に登場する悪魔の声を愉快に思い返したりもしました。民主主義というのは多数決が原理で大まかなものです。真理を追究する哲人政治とは違うでしょう。塾の仕事は後者に近く、秘書の仕事は前者であって、取り組む方法が違うように思いました。要は熱狂・ブームを作り出すことで、そのためには、しんみりと温かい何かというよりは、国の制度が変わり生活が変わるという高揚感を伝えることが肝心で、おおげさに言うと、1時間かけてひとりを育むというのでなく、1分間で100人に働きかけるというような方法——単に人を集めるのでなく人を集めてくれる人を集める、といった非常に雑駁とした大掛かりな方法が効果的でした。ビラまき、ポスター貼り、街頭演説、大規模集会など。大事な一票のためというのは建前で、一すくいに千票をつかむといった大業です。いわば量産態勢ですから凡ミスが出て当たり前。クレームを上手くかわしてこそ一人前。常に状況を俯瞰して、軽やかに動き回ることを求められました。主眼は日本の社会制度の変革です。たいへんに大きなことで、しかも新しいことでした。微細な観察の出番はほとんどなく、速く、多く、明るく、元気に、大胆に、軽やかに、あっさりと、爽やかに、こだわらず、悩まず、広く、大きく、といった心構えでいると仕事が上手く運びました。‥‥もしかしたら世の中の多くの仕事がこうしたノリで行われているかもしれません。とすれば、学校の勉強が不得手だからといって過度に落ち込む必要はありませんね。体力と礼節と勇気さえあれば、仕事を上手くこなしていけると思います。

勉強していて詰まるようでしたら、基本事項という大枠に戻って、だいたいの所をざっくりとつかむ。そして将来に従事するであろう仕事のほとんどは、今やっていることよりずっと楽だと思ってみてください。大人の世界は結構いい加減に回っているものです。右手にルーペを、左手に大なたを持って、交互に使って生活してみてはいかがでしょう。その柔軟さをおすすめしたいところです。どちらかだけだと行き詰まる。秘書の仕事は大なたがメインでした。票田をせっせと耕し、さあ選挙といった矢先に、党の戦略により代議士の「国替え」という事態が起こりました。いち早く当選はしましたが、山梨県第一区で選挙戦は行われず、支持者の方々から「どういうこと?」とお叱りを受け、そのお詫び行脚を最後に私の秘書体験は終わりました。大なたですからキメは粗いのです(笑)。国会でも集会でも街頭でも、当代議士の演説は見事でした。理路整然としていて、こちらの知に訴えてくる。熱狂させる何かが確かにありました。だけど、ふり返ってみて、話の内容は少し難しかったかなと思います。その理知的な風情に私は感服していたのですが、どんな話だったかというと、あまり思い出せないのです‥‥。思い出して再現しようとすると平板な中身になりそうで‥‥。一方で塾の元上司の話し方は、いつでも情に働きかけてくるものでした。言葉の数は少ない。それだけによく覚えています。今、塾の仕事をしていて行き詰まりを感じるとしたら、それは私が「大なた」で色々と片づけようとしてるせいかもしれません。「微細」で行くことの時間のかかり具合を気にして、実はブツ切りで事を運んでしまっているのかも‥‥。その方が生徒がついてくるし、結果もまあまあ引き出せていると内心思っているのかもしれない。つまるところ、人は自然に生活していると大まかになっていくということでしょうか? とするなら、できるだけ両手にルーペを持って歩いていく方が、やはりいいかもしれませんね。ええっ、結局は刻苦勉励の談!? ですが、生徒の皆さんが大なたを振るったって私は決して非難したりしません。気づけば自分が大まかなのですから。