14歳

14歳の頃は日々不満だらけでした。サッカー部での活動や体育祭、友だち関係などで満足のいくことが少なく、溜め息をついたり、歯がみをすることが多かった。不満の原因は明らかで、これが解決できれば、運動はもちろん友人関係でも恋愛関係でも楽々だろうなと思えるような問題。当時この問題のない人はすべてにおいて有利なように見えました。強くなるし、速くなるし、何より見た目がカッコウいい。中学に入学した頃からカッコウよさというのは、顔立ちや頭のよさでなく、ひたすらこのことに寄っていると思えてなりませんでした。これが叶えば、これがあったら、と毎日のように欲していました。すなわち背の高さです。

入学当時は145㎝くらいしかなく、中2の4月になっても152㎝くらいで、気づくととても小柄なのです。小4の時に同じ身長だった多くの友人がどんどん大きくなって、1学年上の先輩のようなのです。威風堂々と歩いていて、中には女子と「つき合う」ことに成功している人も出てきました。うらやましい、と言うより、自分の成長が人より遅いように感じて悔しかった。どうしたら背が伸びるんだろう、とワラをもつかむ思いで、牛乳を飲んだり、煮干しを食べたり、鉄棒にぶら下がったりして努力はしたのですが、すぐに大きくなれるはずもありませんでした。

中2の1学期末に3者面談がありました。担任の先生がもっと活躍できるはず、と叱咤激励をくれました。不全感をかかえているようだが何のことだかわからない、と横にいた母がもらします。大人ふたりはポカンと私を見つめて来ました。私は「背が低いから何をやったって仕方がない」と心でつぶやいたのですが、声にはできませんでした。声にしたら、この発想自体が誤りだと一蹴されるに決まっていると思えたし、自分でもあまりに恥ずかしい言い草だと思えたのです。

そして夏休みに実際に恥ずかしい行動をしてしまった。ウソつき錠剤にひっかかったのです。少年マンガ雑誌に「あなたの背はまだ伸びる」と広告したページが毎週必ずありました。牛骨を主成分にしたという錠剤が5,000円で売り出されていて、それを購入したのです。と、たしかに一瓶の錠剤が届き、あわせて一冊の本も届きました。表題も『あなたの背はまだ伸びる』。読みました。が、保健の教科書みたいでがっかりしました。栄養バランスに気をつけよう、適度に運動しよう、よく眠ろう、いつかきっと願いは叶う。そんなありきたりなことが書いてあるのです。運動の章にあった体操も一応はやってみました。骨の発育に良いとされていて、ラジオ体操第2のような体操でした。うさんくさいなと思いつつも必死ですがりつきました。きちんと錠剤も毎日一粒飲んで。

しかし効果はわかりませんでした。身長は伸びていましたが、中1の頃と同じ自然な伸び方のように思えました。何より恥ずかしかったのは、親と兄弟にバレたことでしょうか。ちょうど似たような薬を出す通販会社が摘発されて、テレビのニュースになって、それを食事時に家族で見ていて、「お前の薬もインチキだな」と兄に失笑され、立つ瀬がなかった。……サッカー部のキャプテンなのに威厳がないこと、足が速くないこと、繁華街で見知らぬ不良にカツアゲされたことなど。ぜんぶは背が低いがためで、長身であれば生活は様変わりすると信じていたのです。

この願望はそれとなく親戚にも伝わりました。ニセ薬の件と合わせて。祖母が言いました。「ふつうが一番いいのよ」。祖母はやさしく微笑んでくれました。ですが、自分はふつう以下に思えて、ふつうになるためにも身体的に早く成長したいと焦っていたのです。

どうして焦っていたのか?根本的には異性との関係が一番だったと思います。中学に入ると一対のカップルがにょきにょきと出現して、その大人っぽいあり様に感嘆していました。「すごいな」、「いいなあ」と雲の向こうを眺める思いだったのですが、もしも自分の体格がそれ相応に大きいのなら、カップルの当事者になれるよう頑張ってもいいのじゃないか、とも思い始めたのです。そしてドキドキしながらひとりの可愛い女の子への告白を想像します。その女の子は中1の時に同じクラスで、何かの委員を一緒に務めたことがありました。目鼻立ちがくっきりしていて、髪の毛が薄茶色を帯びていて、小学校は別でした。新鮮でした。中2になってクラス替えがあり、離れてしまうと急に彼女に対する思いが膨れあがり、「つき合う」ことができたらいいな、と廊下で見かける時などに思います。「つき合う」ことがどういうことなのか何もわかっておらず、ただ心の底に蛮勇がうずいていて、その押し上げに乗るようにして甘美な想像をしていたのです。

早く背を伸ばして、カッコウよくなって、気持ちを伝えてみたい。こんな衝動に駆られて、ひとり体操や筋トレに励んでいました。しかし、よくあることでしょうが、この願いは叶わなかったのです。夏休みが終わり、2学期になると意中の女の子は転校していました。7月にチラッと廊下で見かけた時が本当に最後でした。目標を失ってがっかりしましたが、強さやカッコウよさを求める自分の虚栄心は衰えることがなく、あくせくした毎日をそれからも続けていました。

ところがです。中3になった頃に心境が少し変わってきました。それまでの強い焦燥感が薄れてきて、落ち着きが出てきたのです。訳は、自分の背が目覚ましく伸びたからと言うより、自分より背の低い新中1年生がたくさん入ってきて、同時に同級生たちの身長の伸びが止まり始め、相対的に自分はそれほどには小柄でなくなったからです。中2の頃はミリ単位の伸びに一喜一憂していたのですが、中3の秋口には、もう身長を測ることはやめていました。自然に伸び続けていたのです。

14歳の頃を振り返って今思うことは、願望というのは遅れて叶うのではないかということです。その時、その場では、決して満たされることはなく、願いを忘れるか、あきらめた頃になって、気づいてみると願っていたことが実現している、そういった類のものではないかと思うのです。そして実現したその現場では、実現する前に「どれほどうれしいだろう」と思っていたことが、それほどにはうれしくなくなっている。実現はしたけれど、する前の憧れの状態のほうが、期待から来る仮の喜びで膨れ上がっていて、そのニセの喜びに比べれば真実の喜びが色あせて感じてしまう。バカげたことかもしれませんが、夢を食べて満腹になった勘違いの満腹感のほうが、実際の満腹より満足度が大きい。何も実現されていないのに。……こういう観念性の強い年頃が、私の場合は14歳でした。子供だと言われると腹が立ち、大人だと言われると突き放されたようで寂しくなる。願い事がたくさんあって、その実現を夢見て膨れ上がっていた年頃です。

一番欲しているその時には願いは叶わないのです。中学時代は、背が高くてカッコウいいと言われることはありませんでした。サッカーでも不利なことが多かった。女子とつき合うこともできなかった。それでも願い事をする欲求は抑えられず、高校へ行っても、もっと身長を伸ばしたいと日々考えていました。そして以前好きだった女の子よりもっと可愛いと思う女の子と高2の時に出会い、その子を追いかけ、悶々としたりしました。つき合うことなど当時は叶うことではありませんでした。しかし、高校を卒業する頃、一度あきらめた頃になって、その願いが叶ったのです。また、成人するころは、もう、自分の身長に何の興味もなくなっていました。それでもその頃にまだ何ミリか伸びていたのです。173cmになっていました。それから30年は過ぎたある年の身体測定では174cmになっていました。

念ずれば叶うという慣用句があります。私の感覚では、念ずれば後で叶う、あるいはもう欲しなくなった頃に叶う、というのがぴったりです。願い続けていればいいのです。ただし、やはり、最初の願いの強さが実現への鍵になってくるとは思います。強いほど、願いの熱のようなものが、より熱くなって、置き火となって残り続ける。そして自分の関心がそこから離れてしまった頃に、ようやく実現するのです。

「あきらめるな!」との表現をよく耳にしますが、「あきらめろ!願望を捨てないまま」という表現の方が含蓄に富んでいて良いのでは!? 後々振り返って、願っていたことが違う形で実現しているということがきっとあると思います。

今私が願う事は、一時間でもいいから14歳の頃に戻ってみたいという事です。無理に決まっていますね。ですが、そう欲していれば叶うようにも感じます。新しい環境——尊敬し、憧れるべき人々や物事の間に身を置いて、その人たちやその物事を目指す。「いいなあ」と感嘆するような光景を目の当たりにし続ける。そうすればその方向へ努力をして行けそうですし、「憧れ」という純真さがあれば何歳になろうと14歳の若々しさを取り戻せるように思うのです。